六大武将ゆかりの名古屋 武将の聖地を歩く

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幼少期~青年期を、ここ名古屋で過ごした信長

意外と知られていないが、信長は勝幡城で生誕し、2歳で那古野城(現在の名古屋城)という小さな館の城主を務めた。それから、13歳の元服も14歳の初陣も、濃姫を迎えた15歳の結婚式も、大切な事は、ここ那古野で学んでいる。「信長の青春時代を感じられる」とも言える、今回の聖地巡礼の旅、若き日の信長に想いをはせながら楽しんで欲しい。

  • 西区の蛇池には信長が飛び込んだという伝説が残る 西区の蛇池には信長が飛び込んだという伝説が残る

    「大蛇が出た!」という噂を聞いた若き日の織田信長は、村人達に池の水を全て汲み出すように命令し、自ら池の中に入り大蛇を探したという伝説が残る。池は底無しで、結局大蛇も見つからず、信長は諦めたという。実は、この伝説には裏がある。当時、織田信長に疎まれていた佐々成政が、先手をとって信長暗殺を計画していたというのだ。若い時から信長は、何かと角が立つ性格だったらしい。

    蛇池/東海交通事業城北線「比良」下車4分。地下鉄「庄内緑地公園」より市バス「蛇池神社前」下車。
  • 幼少時代の遊び場は「庄内川(枇杷島)河原」 幼少時代の遊び場は「庄内川(枇杷島)河原」

    『信長公記』に「信長は15、16歳の頃まで朝夕に馬術の訓練をし、川で水練をした。河原では家来たちに竹槍で仕合をさせていた」と書かれおり、その河原が庄内川(枇杷島)河原だ。一緒に遊んでいた中には、うつけ仲間の犬千代(前田利家)や中村の稚児集団があり、日吉丸(後の秀吉)もその集団の中にいた。彼等は川狩などをして魚をとり、枇杷島や清須、津島まで売りに行ったといわれている。

    庄内川/西区枇杷島橋付近一帯
  • 信長が戦勝祈願した熱田神宮には「信長塀」が息づく 信長が戦勝祈願した熱田神宮には「信長塀」が息づく

    永禄3年(1560)織田信長が桶狭間出陣の時、当神宮に必勝祈願をしてみごと大勝したので、そのお礼として奉納した築地塀(ついじべい)が信長塀である。土と石灰を油で練り固め瓦を厚く積み重ねたもので、兵庫西宮(にしのみや)神社の大練塀、京都三十三間堂の太閤塀とともに日本三大土塀の一つとして有名。神仏を信じない信長が熱田神宮だけは崇拝しており、長篠の戦いでも熱田神宮に戦勝祈願している。

    熱田神宮/名鉄「神宮前」下車3分、地下鉄「神宮西」・「伝馬町」下車7分
  • 信長が熱田神宮に奉納した名刀「蜘蛛切丸」 信長が熱田神宮に奉納した名刀「蜘蛛切丸」

    ・脇指 銘/吉光 亀王丸 ・号/蜘蛛切丸(くもきりまる) 鎌倉時代。天下人となった信長は、数々の名刀を所有していた。この脇指について『張州雑志』には、源家重代の宝刀とも、織田信長が永禄3年(1560)に熱田神宮に奉納したとも記されている。永禄3年というと桶狭間の戦いの年である。確証はないが、信長が、勝利への感謝の印として信長塀と共に寄進したのではないだろうか。

    庄内川/西区枇杷島橋付近一帯
  • 信長聖地巡礼の王道「桶狭間」は押さえておきたい 信長聖地巡礼の王道「桶狭間」は押さえておきたい

    永禄3年(1560)当時「海道一の弓取り」と言われた今川義元が二万五千の大軍を率い尾張に進攻する。迎え打つは、わずか二千の信長軍。戦いは予想を裏切り、信長軍が奇跡の勝利を得る。この戦いには家康も敵方で参戦。敗戦後、今川から解放され岡崎に帰還する。信長が天下に名をはせた瞬間だ。伝説地には今川義元の墓が建つ。
    ※合戦の地については諸説があります。

    桶狭間古戦場公園/名鉄「有松」下車15分
  • 大須の「万松寺」は信長・織田家と深い関わり合いが 大須の「万松寺」は信長・織田家と深い関わり合いが

    織田信長の父・信秀が建立した織田家の菩提寺。かつては、桜通り沿いの丸の内一帯に広大な敷地を有していたが、名古屋開府の際に、徳川家康が現在の大須に移した。信長ともゆかりが深く、父の葬儀の際、うつけファッションで登場し、仏前に抹香を投げつけたエピソードが残っている。また、14歳の信長と6歳の竹千代が運命の出会いを行なった場所とも言われている。現在、信長の命を守ったと言われる身代わり不動明王前や、父・信秀の墓碑が祀られており、いつでもお参りすることができる。

    万松寺/地下鉄「大須観音」下車すぐ
  • あの信長が心の底から愛した女性「生駒吉乃(きつの) あの信長が心の底から愛した女性「生駒吉乃(きつの)

    「信長の女性」というと正妻の濃姫が有名だが、それは政略結婚で「婚儀」以外に濃姫の名前は記録されていない。実は、信長には結婚前から好きな女性がいた。名を生駒吉乃という6歳年上の女性である。色白で細面の美女で、やさしくて控えめな人柄だったと言われる。おそらく、信長は那古野城から吉乃の住む生駒屋敷(江南市)へ、頻繁に馬で駆けたであろう。信長から愛され、長男・信忠、次男・信雄、長女・徳姫をもうけたが産後の肥立が悪く、若くして亡くなった。このとき信長は、人前をはばからず大泣きしたと伝わっている。冷酷無比のイメージを覆す、人間らしいエピソードである。

    那古野城址/地下鉄「市役所」下車5分

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